「ミステリー小説」《特ダネ、抜かれまして》作者:萌乃ポトス 第一章(3)
第一章 特ダネ、抜かれまして(3)
【富国通商、再生エネ事業に八千億円投資 今後五年で】
<総合商社首位の富国通商《ふこくつうしょう》は、今後五年間で再生可能エネルギー関連に八千億円を投資する。ロシアのウクライナ侵攻を機に足元で資源価格が高騰しており、電気料金の引き上げにつながっている。富国通商は、風力(ふうりょく)・太陽光などの再生可能エネルギー技術の投資を拡大することで、非資源分野の一層の強化を図る。>
「やっぱ弱いなぁ」
編集中の一面用の原稿の仮見出しとリード(前文)部分を読み返しながら、翠玲はぼやく。その言葉はフロアの熱気に瞬く間に(またたくまに)かき消されていく。
十八時。初版(十一版)の降版までは、あと一時間だ。
朝刊一面トップ。その日の紙面で一番価値が高いと判断されたネタだが、当の翠玲に高揚感(こうようかん)はなかった。疲労感がベッタリと全身にまとわりついていた。
──思えば、朝からついていなかったな。
午前三時。交際相手の圭介が盛大に特ダネを抜かれた。けたたましい電話で、一緒のベッドで寝ていた翠玲までも叩き起こされた。いや、その表現は正しくない。なかなか起きない圭介を起こしたのが翠玲だった。
元々、眠りが浅いし、二度寝できない性分(しょうぶん)。煽《あお》りを喰う形で、予期せぬ形で一日がスタートしてしまった。
「圭ちゃん、これ食べて」
冷蔵庫にあった軽食を圭介に渡し、緊急の朝回りへと送り出した。玄関で見送った時、何だか部活の朝練に向かう我が子を送るような感覚だった。
そこから日中は計三社の取材をこなした。ここまで全速力で走り続けた。
だるさやふらつき、頭痛、動悸(どうき)が最近は酷い。
──動きそうな案件への夜回りが終わり次第、今日は家に帰ろう。
そう思っていたのだが──。
「常木さん、出稿案で出してくれていた例の富国の投資ネタ、一面で決まったからお願いね」
「えっ︎」
十七時過ぎ。三件目の取材を終えたタイミングで、野洲睦姫《やす・むつき》から来た電話に翠玲は素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。野洲は翠玲の所属する企業部第二グループのキャップである。
「うん、そう一面。おめでとう。良かったわね」
翠玲の驚きをネタが採用された喜びと捉えたらしい。
だが、見当違い(けんとうちがい)も甚だしい。
「今日組の一面ネタって、十五時の紙面会議では、社会部ネタに決まっていましたよね?」
「あら、よく知っているわね」
翠玲は紙面に見出しをつける整理部出身である。紙面会議に出席した整理部内の先輩から「社会部ネタに早々に決まった」とあらかじめ情報を受けていた。なのに──。
「堂本局長がさっき帰ってきてね、『社会部ネタはそぐわない』と難色を示したのよ」
「それで私のネタが……?」
どうやら、また東毎の派閥抗争(はばつこうそう)に巻き込まれているらしい。
「うん、良かったわね」
──だから、そうじゃないって。
野洲の一言一言が、翠玲の神経を逆撫で(さかなで)する。
「あの……私のネタ、弱くないですか?」
核心を突く。翠玲が先週の出稿会議で提案したのは、富国通商の社長インタビューでの発言をベースにしたものだ。<社長が「今後、五年で再生可能エネルギー関連に八千億円を投資する」と発言した>というものだが、投資額の八千億は広報と折り合いをつけて、何とか捻り出した数字だ。出稿案として成り立たせるには、時に交渉力も記者には求められる。
──まぁ、中面の囲みくらいで使えれば。
出稿時にそう考えていたネタが、予想外の大出世を果たしてしまった。その価値判断が信じられなかった。
「そんなこと言っても、仕方がないじゃない! 企業部内に他に良いネタがなかったんだから!」
野洲がヒステリーを起こす。セミロングの髪をセンター分けした額(ひたい)に血管が浮き出る姿が電話越しでも分かる。
「ただでさえ、シャインであんなみっともない負け方をして、企業部は面目丸潰れ(めんぼくまるつぶれ)なんだから、仕方がないじゃない!」
突然、圭介が盛大に抜かれたシャインの件が出てくる。
──はい、それをやらかしたの私の彼氏です。
「本当に深堀君とかいう若手は、何しているのかしらね? 今日の夕刊、後追いもまともに出来なかったらしいじゃない。ホント、《《バカボリ》》君ね」
──「アサボリ」だの、「バカボリ」だの、良くもまぁ、みんな秀逸(しゅういつ)なあだ名を思いつくものだ。
いや感心している場合ではない。
そもそも、野洲のような典型的な名ばかり感触に言われるのはムカつく。キャップの仕事を部下に仕事を振ることだと考えていて、週に一本しか原稿を書かない女に、分かったような口を叩かれたくない。だが──。
「私が若い時なんて、もっと大変だったのよ」
──また、始まってしまった。
マウントの扉が開いてしまった。
「自分の昔はもっと大変だった」
新聞社では無能な上司ほど過去の栄光(えいこう)を語りたがる。生きているのは今、大切なのは未来なのに……。
「あっ、野洲さん、すみません! ちょっと本社から電話が来ちゃって」
翠玲は開きかけた扉を強制的に閉じる。無論、本社からの電話は嘘である。
初版の降版までは二時間を切っているし、野洲の昔語りに付き合うほどのボラティア精神は持ち合わせていない。
「良いなぁ、常木さんは自由に働けて。私みたいに子供が二人もいると、取材なんてしている暇ないもん。今から子供を迎えに行かなくちゃ」
言わなくて良い言葉の数々を最後に浴びせて、野洲は電話を切る。
ツーツーツー──。翠玲の鼓膜を不通音が刺す。
「ママぁ」
不意に目の前を母親に手を引かれた子供が横切る。
翠玲は先週、二十九歳になった。記者としては八年目。総合商社という担当一つとっても、社内ではかなり評価されていると思う。
だけど、最近思うのだ。記者という仕事に注力するほどに、女としての幸せは遠のいている(とおのく)のでは──と。
──私だって子供は欲しい。
こうやって親子連れとすれ違う度に思う。
それを考えれば、ひたすらネタを渉猟(しょうりょう)するような今の生活には限界がある。
──そんなこと分かっている。
記者としての幸せを選ぶか? 女としての幸せを選ぶか? 三十歳を来年に控えて、翠玲は懊悩(おうのう)していた。
毎朝経済新聞東京本社は、東京駅の丸の内口から徒歩5分という高立地にそびえ立つ高層ビルだ。
十七時半。十八階の編集局企業部フロアの第二グループの自席に翠玲は戻った。それから今日の朝刊番デスクと整理部の一面担当と二十階フロアで軽く打ち合わせをして、再び十八階フロアに戻ってきた。
十八時過ぎ。社内の温度は十九時の初版の降版に向けて一気に上がる。企業部フロアでは、締切りに追われた百五十人ほどが忙しなく動き回っている。
「全く、常木もとんだ貰い事故やな」
声を掛けてきたのは隣席の茂木である。第二グルーブのサブキャップだが、野洲が時短勤務のため、このグループの実質的キャップと言って良い。
「また、どんぱちあったみたいですね」
編集フロアのある二十階に視線を這わせて翠玲は苦笑する。
「なっ、堂本さんが社会部ネタをちゃぶ台返ししたんやろ。好きだよなぁ経営幹部も。本当に毎日が楽しそうで、何よりや」
元々、細い目をさらに細めて、茂木が皮肉を吐く。
そういう茂木も企業面のトップ記事を緊急で割り振られており、被弾している。
誰かの幸せを実現するために、誰かが犠牲になる──。この会社の縮図(しゅくず)がここにはあった。
──やはり合併なんかするべきじゃなかったんだ。
一面原稿の体裁を整えながら、翠玲の記憶は五年前のあの大合併時を今宵も思浮遊し出した。
毎朝経済新聞社は十七年四月、全国紙の毎朝《まいちょう》新聞社と経済紙の東都経済新聞社が合併し誕生した。当時、発行部数首位だった日本中央新聞、二位の日の出タイムスを一気に抜き去り、日本の新聞業界の主役に躍り出た。
「日本一の新聞社として、共に仲間として戦っていこうぜ!」
合併当初、社内には活気(かっき)があった。
毎朝新聞と東都経済新聞を廃刊にし、新たに毎朝経済新聞を創刊したことはより「対等合併」を際立たせた。
だが、合併から半年後、友好(ゆうこう)ムードは瓦解(がかい)する。
きっかけは、毎朝新聞出身の取締役の裏金疑惑(うらがね ぎわく)が週刊誌の報道で発覚したこと。その後、当該役員は辞任に追い込まれたが、こともあろうに、新たに選出されたのは東都経済出身の取締役だった。
これによって、取締役は従来の六対六から、東都経済が七人、毎朝が五人となった。「対等」の均衡がわずか半年で崩れたのだ。
「これでは、東経の体のいい乗っ取りではないか」
毎朝出身の幹部から次々と不満が上がった。「裏金疑惑自体が東経のリークでは?」との噂も社内を浮遊(ふゆう)し始めた。出所不明(しゅっしょふめい)の怪文書も社内では出回った。
三ヶ月後の二〇一七年末。今度は東経出身の取締役のセクハラ疑惑が週刊誌で赤裸々(せきらら)に報じられた。結果、その取締役が「一身上の都合」で辞任した。
だが、辞任よりも後任で揉めた。選出された取締役が、東経出身者だったからだ。
「これで取締役の体制が六対六に戻る」
そう踏んでいた毎朝出身の幹部はこれに激怒。それからというもの、この五年で何人も取締役が入れ替わるという異常事態に発展した。
合併から五年経った今、取締役は東経出身が八人、毎朝出身が四人。東都経済優位で内戦は続いている。
本来、部下の模範(もはん)となるべき経営陣自らが乱れる。戦域は、必然的に部下達にも波及(はきゅう)していった。
その最たる例が、新媒体の立ち上げだ。合併から五年で、実に六つの新媒体が立ち上がった。
翠玲も当時、二媒体の立ち上げに整理部員として関わった。表向きは「読者のニーズに応えるため」との触れ込みだった。
だが、実際は違う。権力争いのために毎朝、東経の出身者が三媒体ずつ立ち上げた。
新コンセプトという割に、紙面のロゴ、レイアウト、内容などを入れると、結局は旧毎朝新聞と旧東都経済新聞に毛が生えたような内容だった。今では六媒体全てが赤字なのだから、苦笑するほかない。
──いくら特ダネを報じたって、新しい媒体を立ち上げたって、斜陽産業(しゃようさんぎょう)の新聞の流れは変わらない。
それなのに上層部は「クオリティファースト」を掲げて、記者たちに高すぎるレベルを求めてくる。媒体が増えたことで出稿量もただでさえ激増している中、現場の記者達はどんどん疲弊(ひへい)していく。
「こんな新聞社に誰がした!」
そんな捨て台詞(すてぜりふ)を吐いて、ここ数年、何人もの仲間が退職していった。
回想から現実世界に帰還する。翠玲は一面トップ原稿を完成させていた。
本記は八十行。顔写真とグラフは出稿済み。
端末画面左上の自動校正ボタンをダブルクリックすると、負荷(ふか)が上がり、記者端末が苦しそうにファンから空気を取り入れる。代わりに吐き出された空気が、ますます企業部フロアを熱くする。
──原稿に誤植(ごしょく)はない。大丈夫だ。
原稿早出ボタンを力強くダブルクリックする。
瞬間、原稿がスッと端末画面の向こうの世界に吸い込まれていった。
「一面、本記出しました」
社内スマホを耳に押し当てて、デスクに告げる。
机のデジタル時計は十八時十七分。
──次は三面の関連原稿だ。
ピーピコピコ──。共同通信のピーコをBGMにして、どんどん熱を帯びていく社内の中で、翠玲はキーボードを打つスピードをさらに早めていった。
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