所谓畏惧的感情

所谓畏惧的感情

                                                              恐れという感情

                                        ——唐木 順三

信州八岳山的西山脚下,海拔一千一百米左右的地方,有一处很大的泉水。虽然八岳山的东西山脚下都十分缺水,可这里涌出的水量却很丰富,在灌溉用水方面果然起了很大作用,泉水的尽头注入了釜无川。山脚下的村庄还将该泉水引入自来水管,水质也不错。

信州八ヶ岳の西麓、標高千百メートルの所に、大きな泉がある。八ヶ岳は東麓も西麓も、水の少ない山であるが、ここの涌水の量は豊かで、水田の灌漑用水の役を果たした末は釜無川に注いでいる。また麓の村はこの水を引いて水道にしている。水の質もよい。

这处泉水一带背负着一个小山丘,上面有老树高高地耸立着。其中有杉树,红松,丝柏,还有铁杉,这铁杉树非常漂亮。它的品种优良,树枝全部伸展开来,除了叶片与冷杉有相似之处,柔软的树叶十分茂盛。它们遮住了地面,在软和而湿润的地衣之中,生长着一簇簇的草鳥头。

この泉のある一帯は背に小さい丘を負い老樹が高く聳えている。杉、赤松、檜、そして栂、この栂の木は見事である。素性よくまっすぐに伸びて、樅の葉に似いてそれよりは柔らかい葉を茂らしている。地面は翳って、柔らかく潤い、苔の中にトリカブトが群生している。

昨天,我到那里去了。在杉树和铁杉黝黑的叶子当中,榉树的嫩叶尤其美丽。以前这里是更加深邃的森林吧,在涌泉的积水处,传说中的水中虫子与它的名字一点不差,它那轻快游动的身影映在了美丽的水底。人却一个也没有。我在这泉水边坐了下来。

昨日、私はそこへ行った。杉や栂の氦螭廊~の中に、欅の若葉が美しいかった。以前はここはもっと深い森であったろう。涌水の溜まりには、すいすいと俗に言われる水中の虫が、その名に違わず、すいすいと軽快に動く影を美しい水の底に映していた。人は誰もいなかった。私はその水の辺りに腰を下ろした。

涌泉周围的面积有十个榻榻米左右,这里被围了起来,禁止进入。竖起了铝合金柱子,柱子上照例被讨厌的带刺的铁丝网缠绕着。铝合金是人工涂成的银色,柱子的底座用水泥加固。

涌水の周囲の十畳ほどの広さを、ここに立ち入るべからずとして囲ってある。ジュラルミンの柱を立て、その柱に例のトゲのある針金をこちたく絡ませている。ジュラルミンは人工的な銀色である。柱の土台はセメントで囲めてある。

今天已到了夏季的尽头,却连个人影也见不到,从这里散布着的饮料空罐和沉在积水底部的玻璃瓶可以得知,夏季来这里探访的徒步旅行者似乎还不少。此外还有一处处焚烧的痕迹,铁杉的树枝被削掉,在那上面可以看见已褪色的幼稚的文字。

今日は季節に外れていて、人っ子一人いなかったが、夏のシーズンにはここを訪れるハイカーたちがおおいらしいことは、そこここに散らばっているジュースの空き缶や水溜りの底に沈んでいるガラス壜によっても知られる。所々に焚火の跡もある。栂の幹削られ、底に書かれた稚い文字が色褪せながらに見える。

来这里的徒步旅行者,做饭寻找水源一般是就近取水吧。可是只要看看那积水中沉着的罐头和瓶子,想要在美丽的泉水涌出处直接取水烧水的地方已经没有了。由于石板被毁坏,发生了水源污染的事情。因此,当地人有必要竖起带刺的铁丝网来保护水源。事情就是这样的。我一边想着这些,一边感到心里不能平静。

ここに来るハイカーたちは、炊事の水を求めて水源により近い所へ近付くだろう。水溜りに壜や缶の沈んでいるのを見れば、そういう所でない、美しい水の涌くところから直接に水を汲みたくだろう。そして石組みを壊し、水を濁すことも起こるだろう。したがって、土地の人がジュラルミンと有刺鉄線で水源を保護する必要がおこるだろう。それはそうである。それはそうと思いながら私の心は落ち着かなかった。

杉树也好,铁杉也好,榉树也好,与它们几百年树龄形成的堂堂风姿相比,这铁丝网和铝合金立柱就更加显得寒酸。不但寒酸,而且丑陋,外加轻薄。这样寒酸,丑陋和轻薄的东西,为什么一定要竖在这里?如果让这样的所作所为成为必要,人类不就成了丑陋,轻薄,心术不正的了吗?

杉や栂や欅の、樹齢何百年のかもしだす堂々とした風姿に比べて、この針金やジュラルミンはいかにも貧相であった。貧相であるばかりでなく、醜く、また軽薄であった。こういう貧しく、醜い、軽薄なことを、なぜしなければならないのか。それを必要にさせる人間の所行が、醜い、軽薄で、心知らずだからではないのか。

记忆中,我曾读过柳田国男翁写的文章。从前的旅行者们,对泉水爱惜之,清洁之,关心后来的旅行者能够在这里愉快地休憩。这体现了旅行中遵守道德已成为习惯。在泉水边种植柳树,体现了村民对旅行者的体贴。在树荫下擦把汗,歇口气,恢复脚上的力气,再迈出下一步,这体现了对旅行者的关心。

かつて柳田国男翁の書いたものの中で読んだ記憶がある。昔の旅人たちは、泉を大切にし、清潔にし、後から来る旅人たちを快くここに憩わせようとする配慮をした。それが旅をするものの道徳であるとともに慣習であった。泉の辺りに柳を植えたのも、村人の旅人への思いやりであった。その陰で汗を拭い、一息入れて、次の脚を元気に踏み出していくための心遣いであった。

这里面有旅行的礼节,有对旅行者同仁的人类的关怀。——我的想象又超越了一步,向着稍稍以前的时候飞去。

それは旅のエチケットであり、旅人同士の人間的な配慮であった。――私の想像は、そこをもう一歩超えて、もう少し以前のところへ飛んだ。

水对人类来说,是最根本的必须品,而不仅仅是沙漠中的绿洲。习惯于将自己的国家称为丰苇之原,丰谷之国的日本,水有着基本的条件。日本人的主食依靠大米,能不能种植水稻关系到一年乃至三年的命运。水稻以水为必要的条件,不断得到优质的水,也是生活的基本条件。夏天的干旱期为水而起纷争,是为了确保水源;而治山治水是国民的共同职责。

水は人間にとって、最も根本てきな必要物である。砂漠の中のオアシスだけをいうのではない。豊葦原の瑞穂の国と自らの国を呼びならわした、水は基本的な条件であった。主食を米に仰ぐ日本人にとって、稲作の出来、不出来は一年乃至両三年の呙碎v係する。稲は水を必要とする。良質の水を不断に得るということが、生活の基本条件であった。夏の旱魃期には水争いも起こるが、水源を確保すること、治水治山は国民共通の役目でもあった。

水是生活的基本条件,同时它在日本还是文化和艺术的条件。在营造水田的过程中,有着一种艺术性的经营。开水渠,筑田埂,整理田地的形状。在高低不平处构筑水田必须垒石墙,修水库。必须遵从当地的情况来考虑水田的形状。甚至有人说,种植稻秧的灌水时节,水田条纹与条纹的交界处,大约与桂离宫的构想有着某种关系。

水は生活の基本条件であるが、同時に日本ではそれが文化のや芸術の条件でもあった。水田の造営そのものが、一種の芸術的な営為でもあった。水路を作り、畦を塗り、田の形を整える。段地での水田構築は石垣を積んだろ、堤を作たねばならぬ。土地に従って田の形を考えなければならぬ。早苗を植え、水を張った頃の水田の縞目が、やがて桂離宮の構想に関係しているとさえ言った人もいる。

山水之类的言语直接意味着风景,也许是旨在说明日本人的自然观,风景观吧。说到泼墨画,水墨画,还是说水是几乎离不开的东西为好。如果画一个在船上垂钓的人,这船是轻舟,而人物只不过是连脸都分辨不清的点缀而已。岩石与水,山与河流,那才是画的主题。有庭园必有水池,有水池必有山石,这就是构成所谓庭园的一般的想法。因此,庭园艺术是最贴近老百姓的艺术,同时,它又带有可以向世界夸耀的高度的艺术性。

山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆ど付き物と言ってよい。舟を浮かべて糸を垂れて釣する人を画いても、その舟は軽舟、人物の顔もしかとはわからないほどの点景にすぎない。岩と水と、山と川と、それが画題のテーマである。庭あれば池あり、池あれば石組みあり、それが庭というものの通念をなしている。そして、庭園芸術は最も庶民的な芸術であるとともに、世界に誇ってもいい高度の芸術性を帯びている。

昨天,我见到了围绕着水源的附有铝合金柱和带刺的铁丝网,最先的感触是,对照周围幽静的风景,这一切显得实在不协调,是一件丑陋的事情。尽管这件事在今天是必要的,而且也有着使这件事成为必要的原因。但是请想象一下,在这件事没有必要的近代以前,我想到了水与人类,水与日本人的故事。

私が昨日、泉の水源を囲うジュラルミンとトゲの付いた針金を見てまず感じたのは、周囲の幽邃な風姿に対して、それらがいかにも不調和で醜いということであった。にもかかわらず今日それは必要であるが、それを必要にさせた原因は何かということであった。そして、そういうものを必要としない近代以前を想像し、水と人間、水と日本人のことに思い及んだ。

确信只要拧一下自来水管的水龙头,任何时候水都会出来的人类,已经失去了对水的尊敬了吧。只有在枯水期,水供应极端缺乏的年代,才会想到水的效用吧?在这样的情况下,似乎要对都市的自来水厂和政府发牢骚吧。也就是说,水作为自来水问题,水资源问题,变成了政治问题,乃至于政治的对象。这样的事情放在现代,就成了无可奈何的事情了吧。尽管想到了这是无可奈何的事情,我还是要表达我的不满。

水道の蛇口をひねればいつでも水は出るものと思い込んでいる人間には、水に対する尊敬なっどはないだろう。渇水期に水の出が乏しくなった時にだけ、水の効用におもい及ぶだろうが、そういう場合も、都の水道局や都政に対して不平をいうことぐらいだた。即ち水も水道問題、水資源問題として、政治的問題また政治的対象になってきた。それは現代においてはやむをえないことだろう。やむをえないこととおもいながら、なお私は不満である。

在现代,各种各样的事情不但都被机械化了,而且还被政治化了,于是人类将这些事情都作为机械的,政治的事情来处理了。因此,将各种各样疑似神圣的事情剥去画皮,就暴露了原形,因为大众批判而走上正道的事情也不少。即使承认了这一点,我对泉水和人类的关系所感到的不满还是挥之不去。

現代様々なものが機械化され、また政治化され、そして人間はそれらのものを機械的、政治的に扱っている。それによって、さまざまな擬似神聖なもののウエールが剥がされ、正体が暴露され、大肖闻肖摔瑜盲普筏さ坤藖ったものも少なくはない。そういう点を認めながらも、なお泉と人間に関して私の感じた不満は去らない。

我所爱好的寒山诗中的一句如下:“寻究无源水,源穷水不穷。”人们寻找探求水源,从下游溯流而上,渐渐来到了上游。然后,终于探出了水源。这恰好与科学的研究方法相似。从结果探求原因,探求原因的原因,虽然有原因,却决不会找到原因的所在,可以说第一原因,是要追溯直到找到根本的原因。这就是寒山诗的第一句,说到“寻究无源水”,还是说到具体的,人性的意思为好。说到人性的原因,虽然人们探究出最终的原因会感到不安,但是如果人们彻底弄清楚了,就有安心下来,就此坐一坐的习惯。人们对发生的事情原因不明时,存在不安,如果将如此这般的原因,将发生的结果判明的话,就会感到安心。说起科学的进步,还是说判明原因的进步为好。比如说,如果癌症的发生原因还不明确的话,癌症就难以治疗,因而导致人们的不安。如果癌症的原因判明的话,治疗的方法就有了可能。为探求这个原因,现代医学倾注了最大的努力,但是直到现在还没有进步。但是,有一天这个原因总会被探寻到的。这就是“寻究无源水”的例子。

私の好きな寒山詩の中の一句は次のようなものである。「尋究無源水、源窮水不窮(じんきゅうむげんすい、げんきゅうすいふきゅう)」人は水源を訪ね求める。下流から遡って、次第に上流に上る(のぼる)。そして、遂に水源を探し出す。それは恰(あたか)も科学の研究方法に似ている。結果にははらないところの、いわば第一の原因を探り、原因の原因を探り、原因ではあるが決して結果にはならないところの、いわば第一の原因、根本原因にまで遡るだろう。それが寒山の第一句、「尋究無源水」の具体的また人性的意味と言ってよい。人性的と言ったのは、人は窮極原因を探し出すまでは不安だが、それを窮め尽くせば安心してそこに腰おろすという習性を持っているからである。人は原因不明の出来事に対しては不安であるが、これこれしかじかの原因によってこの結果が起こったということが判明すれば、そこで一安心する。科学の進歩とは原因解明の進歩と言ってよい。例えば癌の発生原因はまだ不明であるから、癌は治り難く、したがってはとを不安にしている。癌の原因が判明すれば治療の方法も可能になる。その原因を探求することに現代医学は最大の努力傾けながら、いまだにそこまで進歩していない。しかしいつの日かその原因は探し当てられるだろう。それもまた「源窮水不窮」の一ケースである。

然而,更加关键的在于第二句“源穷水不穷。”水源被勘探弄清之后,水当然会像往常一样滚滚涌出了吧。与人迹罕至的从前一样,水一直在滚滚涌出。为人所知也好,不为人所知也好,如果与己无关的话,泉水日夜涌出直到穷尽的地方是没有的。科学就是要将各种各样的事情弄清楚,有所进步。山坡高,峡谷低,斜眼睛,塌鼻子,要矫正它们,却难以改变。将这不变的地方彻底弄清楚,禅宗是这样说的吧。彻底弄清楚就到了没有尽头的极限,还有长期居住的日日夜夜,我们周边所有的东西,不,我正是因为这件事情才要彻底弄清楚,这是寒山说的吧。“源穷水不穷”,不管走到哪里,水作为水喷涌而出,永不停息。

ところで、更に一層肝腎なのは、第二句の「源窮まりて水窮まらず」である。水源は探求っされ、解明されたが、水は相変わらずに滾々と涌き出ているというのであろう。人跡未踏の昔からと同様に、水は涌き出ている。人にしられようが知られまいが、我関せずと日夜に涌き出て窮まるところがないというのである。科学はさまざまなことを解明し、進歩すてしたが、山は高く、谷は低きこと、眼は横鼻が直なることに変わりはない。その変わりのないところを窮めよと、禅は言うだろう。窮め尽くして窮みなき辺際、しかも常住日夜、私たちの周辺にあるもの、いな、わたしそのものをこそ窮め来れと、寒山は言うだろう。「源穷水不穷」。どこまでどこまで行っても水は水として涌き立てやまない。

泉水作为“水不穷”,总觉得有其神秘之处。在科学达不到的境界,哪里都有形而上的东西。人可以感觉到像泉水这样的东西。讲道理的人,关于水源的水源,底下的水脉,水脉的发生理由,如此之类的事情,现在也许可以说有探求的可能了。就算是这样的吧。但是,在地下钻洞千尺,水从岩石与岩石之间不断向地上涌出,日夜不停的姿态,感觉不到任何的偶然性和不可思议,人类真是太缺乏感觉了。

泉は「水不窮」として、どこか神秘的である。科学の至り得ない境として、どこか形而上的である。人は泉をそういうものとしてかんじてきた。理屈を言うひとは、水源の水源、地下の水脈、水脈の発生理由、そういうものもいまや探求可能と言うかも知れない。それはそうだろう。しかし、地下千尺をくぐって、ある岩と岩からたまため地上に涌き出して日夜やまないという姿に、何の偶然性、不可思議をも感じないというのでは人間的に無感覚に過ぎる。

昨天,我在泉水边站立着,想到了在那没有必要竖立铝合金柱子和带刺的铁丝网的时代的事情,想到了人类的事情。仰望巨大的榉树,铁杉和杉树,看到了滚滚的不停流动的泉水,思绪在那样的时代奔驰着。几百年树龄的老树,只有在这个角落还残留着,人们也许会感到这里是一个神圣的场所吧?感谢它给予了灌溉水田的水,还有饮用的水,更进一步说,这是超越了利害关系的地方,是“源穷水不穷”的姿态,你会感觉到一种形而上的东西,超越了人的力量,人的智慧的东西吧,因此会对它感到敬畏吧。神圣的场所不可使其污秽,不能对它不加爱惜,不能擅自进入。将对这些事情的感叹,说给子孙后代听吧。所以在这泉水涌出的地方,是由于村民们的敬畏才能保护保存下来的。如果有时候谁在这里扔出可恶的污染物的话,他也许将受到村民的制裁,将他赶出去吧。

私は昨日、泉の傍らに立って、ジュラルミンも有刺鉄線も必要のなかった时代のこと、人間のことを。欅や栂や杉の巨木を仰ぎ、滾々と流れてやまない水を見て、そういう時代に思いを馳せた。樹齢何百年の老樹がこの一角だけ未だに残されているのは、人がここを一種神聖な場所として感じてきたたからであろう。水田を灌漑する水、また飲み水を与えてくれる場所として感謝するとともに、もう一歩、利害を超えたところで「源穷水不穷」という姿に、一種の形而上的なもの、人力人知以上のものを感じたのであろう。そして、それを恐れ敬したのでもあろう。神聖な場所は穢してはならぬ。粗末にしてはならぬ。みだりに立ち入れってはならぬ。そういうことを感じ、それを子やたちにも言い聞かせたであろう。そしてこの泉の沸く所は村人たちによって恐れられながら、保護され、保存されてきた。時にここを穢す不埒なものが出れば、村人の制裁も受けたろう、所払いにもされたろう。

我现在使用的是“畏惧”这个词。我所说的畏惧,是对于某种变得伟大的,人的力量和人的智慧都达不到的东西的一种敬畏的理念。这一阵“协商”之类的话很流行。也就是以谈话解决问题作为前提而建立的“协商”,去处理解决不了的问题,疑难问题。这一方面是一件好事,如果能将自己的意志和思虑分别用言语来表现,这是格外的进步。同时在另一方面,似乎根据协商就能处理一切事情之类的不子量力,无形之中被唤醒了。认为没有什么人的智慧和人的力量所不能解决的事情,这种倾向正在被唤醒。因此,神圣的东西,人的智慧人的力量以外的东西也许不会被接受。因此,我所说的“畏惧”之类的感情、情绪好像也正在很快消失。我认为这里面包含着十分重要的问题。

私は今「畏れ」という言葉を使った。私がおそれといったのは、ある偉大なるもの人力や人知の及ばないものに対する畏敬の念である。この頃「話し合い」という言葉が流行している。話せば解るという前提に立って「話し合う」ことによって、解らないこと、難しいことを処理しようとしている。それは一方ではよいことである。自分の意識

のうちに呼び起こしてきている。したがって、神聖なもの、人知人力以上のものを認めまいとする。したがって、私のいう「畏れ」という感情、情緒も急速に消失しようとしている。これはなかなか重要な問題を含んでいると私は思う。

来到从前人们所畏惧的美丽的泉水涌出的,耸立着几百年树龄的老树的地方,看见那里扔着饮料空罐、苏打水瓶子、巧克力的银纸、削去树皮并刻上自己的名字,等等如此之类的所作所为,在毫无畏惧的地方当然会发生这样的事情。因此要竖起带刺的铁丝网将水源围起,这样的事情当然会发生。我并不认为这是特别不可思议的。践踏美丽的花草,砍倒小树,水池里沉着空罐之类的事情都已经发生了。如果要防止此类事情的发生,在附近一带竖起带刺铁丝网,禁止进入,也就顺理成章。这并仅仅不限于我所去过的泉水,所有的观光地区,名山胜景都存在这样的情况。

美しい泉の沸く所、樹齢何百年の老木の聳える所、昔の人のおそれ所へ行って、ジュースの空缶(あきかん)、サイダーの壜を捨て、チョコレートの銀紙を捨て、樹皮を削って我が名を刻み、等々という所行も、おそれの感情のないところからは当然に出てくる。したがって有刺鉄線で水源を囲む必要も当然に起こってくる。そして、それを特別に不思議とは思っていない。美しい草花が踏みにじられ、若木が倒され、水溜りに空き缶が沈むということも出てくる。それを防ごうとすれば、付近一帯に有刺鉄線をはりめぐらして立ち入り禁止にしなくてはならないということになる。これは単に私が行った泉に限ったことではない。至る所の観光地、名山、景勝の地においても同様である。

人世间以上的所作所为,往往说明了社会公德心的缺乏。社会公德心的缺乏,在街头,公车中,集会场所,所有人群密集的地方到处可见。我将它看作特别的问题,是因为社会道德,公德,公德心并不仅仅是人与人的关系,它超过了人与人之间的关系,还超过了自己与自己之外的事物的关系。不用说,人面对人会感到畏惧,会持有恐怖心。我之所以使用与之区别的字眼“畏惧”,是因为它显示了与人面对人的恐怖心不同的“害怕”的感情。社会道德和公德心通过教育方法,电视,广播,新闻媒体等传播方式,慢慢向好的方向发展,还会得到正面引导吧。但是我在这里所说的“畏惧”的感情并不像公德心的情况那样简单。之所以这样说,是因为到了近代,这里所说的“畏惧”可能向着消失的方向发展。近代化的结果,除了将所谓畏惧的感情,情绪消除掉,别无选择。从十七世纪的笛卡儿以来,如果相信人类的力量,正确行使理性行为的话,相信世界上没有什么不可解决的事情,沿着相信人的智慧,人的力量的无限能力的方向前进,现在已到达了这个境界。说起近代,还是让近代根本的特征来说话为好。因此,人的智慧人的力量以外的东西,形而上的东西,神圣的东西,是作为人类智慧未发达时代的遗物,作为无用之物,或是无视它,就能够朝着这样的方向前进。也就是说,可以将畏惧之类的感情作为不用之物,无用之物来处理。这就是近代欧洲的特色,因为欧洲的科学技术先进,确立了其世界优先地位,欧洲的近代即世界的近代。日本的近代化,是在战败后才促进和发展起来的,畏惧之类的感情在青少年之中消失,这样说如果是当然的话,就是当然的吧。

世間は右のような所行を往々にして公徳心欠如ということで説明しようとしている。公徳心の欠如は、街頭でも、車中でも、集合場でも人間の集まるところ至る所でみられることである。私がここで特に問題にしているのは、社会道徳や公徳や公徳心という人間との関係だけの問題ではなく、人間と人間を超えたものとの間の関係、また自分以上のものとの間の関係についてである。もちろん、人は人に対して恐ろしいと感じたり、恐怖心を持ったりする。私がそれと区別して「畏れ」という文字を使ったのは、人間の人間に対する恐怖心は違った「おそろし」という感情を、それにおいて示したかったからである。社会道徳や公徳心は、教育の仕方、テレビやラジオやジャーナリズムなどを通しての教育の仕方によって徐々にではあるがよい方向かっているし、また向かい得る出あろう。しかし私のここで言っている「畏れ」の感情は公徳心の場合のように簡単ではない。というのは、近代という時代は、ここに言う「おそれ」をなくそうとする方向に進んできたからである。近代化ということは、いわばおそれの感情、情緒を払拭することにほかならなかった。十七世紀のデカルト以来、人間理性の力を信じ、理性を正しく行使するならば、世に不可解なことは何一つないと信じ、人知人力の無限の能力を信ずるという方向を辿って今日に到った。それが近いもの、形而上的なもの、神聖なものとしてきたのである。それがユーロッパの近代が即ち世界の近代といいうことになった。日本の近代化は敗戦後においていよいよ促進されてきたのだから、おそれなどという感情が青少年の間から消え去って行ったのもまた当然といえば当然であろう。

畏惧是从超越自我存在的关系所发生的感情。因此将超越自我,超越人的智慧、人的力量视为无用,将其否定而成立的近代,失去了这样高度的感情,如果说是当然的话,确实是当然的。但是,这种当然很难说是正当的。不用说,在今天应该考虑和反思一下关于批判近代和近代化,近代如何将人原子化,矮小化的事情。自然并不像按照人的智慧的分析,已经完全解释清楚了那样浅薄。失去了对大自然的命运的接触之时,就是人类生活失去了这种深奥之处吧。寒山诗的“寻究无源水,源穷水不穷”,直到今天还没有失去它这个具体的意义。

                                                                                                                            (根据1973年《信仰与拯救》)

「おそれ」は自己を超えた存在との関係から起こる感情である。そして自己を超え、人知と人力を超えたものを無用にし、拒否することによって成立した近代が、そういう高度の感情を失っていくことも、当然と言えば当然だが、この当然は正当とは言い難い。むしろ今日では、近代や近代化を批判し、近代が人間を如何にアトム化し、矮小化したかということを考えて見るべきである。自然は人知によっえ分析され、解明し尽くされるほど浅薄なものではない。大きな自然の命に触れることのなくなってしまう時、人間生活はその奥行きを失ってしまうだろう。寒山詩の「尋究無源水、源窮水不窮」じゃ今日でもその具体的意味を失ってはいない。

                  (「信仰と救い」1973による)

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作者:zhangchen
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来源:TechFM
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